定義
バクタ(bhakta)は、神への信愛と献身を実践する人、すなわちバクティ・ヨーガを歩む者を指す言葉です。
解説
バクタとは、神や大いなる存在への信愛に生きる人のことです。この語の特徴は、バクタが常に「誰かのバクタ」であるという点にあります。クリシュナのバクタ、シヴァのバクタ、ラーマのバクタなど、バクタは単独で成り立つ称号ではなく、向き合う相手との関係の中ではじめて成り立つあり方なのです。
もう一つの大切な特徴は、バクタであるための資格が問われないことです。学識の深さ、修行の年数、生まれや身分など、そうしたものはバクタの条件になりません。問われるのはただ心の向きであり、その意味でバクタへの道は誰にでも開かれています。
実際の用法は幅広く、特定の神格に仕える熱心な帰依者を指すこともあれば、日々寺院に足を運ぶような信心深い人を広くバクタと呼ぶこともあります。現代のインドでも、日常のことばとして生きている語です。
語源
バクタ(bhakta/भक्त)は、バクティと同じ動詞語根 √bhaj(भज्/「分ける・分配する」)から生まれた語です。バクティが接尾辞 -ti によって「信愛という営み」を表すのに対し、バクタは接尾辞 -ta(過去受動分詞をつくる接尾辞)によって、「分け与えられた者」「与(あずか)った者」を原義とします。そこから転じて、神に心を寄せ、その恵みに与る人、すなわち帰依者・信愛する者を指すようになりました。
興味深いことに、bhakta には古くから「炊いた米・食事」という意味もありました。「分け与えられたもの」が、そのまま食べ物を指したのです。ヒンディー語で飯を意味する bhāt(भात)は、この語の子孫にあたります。√bhaj の「分かち合い」という原義(→バクティ:語源欄)が、信仰の語と食卓の語の両方に、いまも生きているわけです。
現代インドにおける bhakt
現代のインド、とくに2010年代以降のソーシャルメディアやニュース報道では、ヒンディー語形の bhakt(भक्त) が、宗教とは異なる文脈で用いられるようになりました。特定の政治指導者や政党を熱烈に支持し、批判を受け付けない人々を、皮肉をこめて指す語としての用法です。andh bhakt(अंधभक्त/「盲目のバクタ」)という形も広く使われます。
この用法は、バクティのもつ「ひたむきな帰依」という含意を、信仰から政治へと転用したものです。用いる側は、批判的な検討を欠いた追従を揶揄する意味をこめますが、一方で呼ばれた側がこれを侮蔑と受け取ったり、あるいは肯定的な自称として引き受け直したりする例もあり、語の評価は一様ではありません。
宗教語としての bhakta と、この現代的な bhakt は、同じ語でありながら価値の方向が正反対です。伝統において最も尊いあり方を指す語が、現代では最も痛烈な皮肉の語にもなる——ことばが時代とともに姿を変えていく、興味深い一例といえます。また、同種の意味の滑りは、英語 devotee や日本語の「信者」にも見られます(→英語表記欄)。
英語表記について
英語では bhakta とそのまま音写されるほか、一般には devotee(帰依者)と訳されます。「devotee of Krishna」のように前置詞 of を伴う形は、バクタが常に「誰かのバクタ」であるという関係性(→解説欄)をよく写し取っています。
ただし、英語の devotee には注意すべき広がりがあります。この語は宗教的な帰依者だけでなく、「a devotee of jazz(ジャズの愛好家)」のように、熱心な愛好者・ファンを指す日常語としても定着しているのです。そのため devotee という訳語は、bhakta のもつ宗教的な重みを、やや軽く響かせてしまう場合があります。
もう一つ、believer(信者)や follower(信奉者)といった訳語も見られますが、これらはやや焦点がずれます。believer は「教義を信じること」に、follower は「教えに従うこと」に重心があるのに対し、バクタの核にあるのは信じることでも従うことでもなく、愛し、与(あずか)る関係だからです(→語源欄)。どの英語も、bhakta の一面しか掬いきれません。
なお、英語圏のクリシュナ信仰の場、とりわけ ISKCON(→ISKCON欄)では、devotee がそのまま「信徒・実践者」を意味する内輪の呼称として日常的に用いられます。 “He is a devotee.” といえば、ジャズ愛好家のことではなく、クリシュナに帰依して生きる人を指すわけです。訳語が共同体の中で独自の重みを獲得した例といえます。
日本語では「信者」「帰依者」「信愛者」などと訳され、そのまま「バクタ」と音写されることも少なくありません。
興味深いのは、bhakta をめぐるこの「軽さ」への傾きが、英語だけの現象ではないことです。日本語の「信者」もまた、本来は信仰に生きる人を指す語でありながら、現代では「〇〇信者」のように、特定の対象を無批判に支持する人を揶揄する言い方として広く使われています。英語 devotee が愛好家へと軽くなり、日本語の「信者」が皮肉へと転じ、そしてヒンディー語の bhakt もまた同じ道をたどっているのです。つまり、尊い帰依を指す語が、時代とともに揶揄の語へと滑っていくという現象が、サンスクリット・英語・日本語のそれぞれで並行して起きているわけです。訳語を選ぶという作業は、こうしたことばの現在地を見定める作業でもあります。
ヨーガとの関係
ヨーガの道を歩む人を指す語は、バクタだけではありません。ヨーギー(ヨーギン/yogin/योगिन्)、サーダカ(sādhaka/साधक)、シシュヤ(śiṣya/शिष्य)など、それぞれ角度の違う呼び名があります。なかでもヨーギーは道を問わない一般的な呼称であるのに対し、バクタは信愛の道に立つ人であり、しかも常に「誰かの」バクタであるという点で異なります(→解説欄)。
この二つの語を正面から突き合わせているのが、『バガヴァッド・ギーター』第6章の結びです。クリシュナは、
すべてのヨーギーのうち、心を私に注ぎ、信をもって私を礼拝する者をこそ、最もよく結ばれた者(ユクタタマ/yuktatama/युक्ततम)とみなす
と語ります(6.47)。
ここには、ことばの上での見事な符合があります。
- ヨーガ(yoga)は語根 √yuj(結ぶ)に由来し、その過去受動分詞が yukta(結ばれた)。
- バクタ(bhakta)は語根 √bhaj(分かち合う)の過去受動分詞(→語源欄)。
- つまり yukta と bhakta は、異なる語根から同じ接尾辞 -ta で生まれた双子のかたちなのです。
- さらにこの節でクリシュナが用いる動詞は bhajate——バクタと同じ √bhaj そのものです。
「最も結ばれた者(ユクタタマ)」という称号がバクタに与えられるとき、バクタはヨーガの周縁にいるのではなく、ヨーガという語の原義のただ中に置かれていることになります。結ぶことがヨーガであるなら、分かち合いを通じて結ばれる人こそ、その名にふさわしい、ギーターはそう述べているわけです。
ただし、この一節の読み方は伝統によって分かれます。シャンカラは「私を礼拝する」の「私」を万人の内なる自己と解し、自己との合一として読みます。一方ガウディーヤ派をはじめとする信愛の伝統は、これを人格神クリシュナへの帰依と読み、バクタがあらゆるヨーギーに優越する証拠とみなします。同じ一節が、立場によって異なる高みを指す、ここもまた、この節が長く読み継がれてきた理由の一つです。
バクティとの関係
バクティとバクタは、同じ語根から接尾辞 -ti と -ta によって分かれた一組の語です(→語源欄)。しかし両者の結びつきは、語の成り立ちにとどまりません。この二つは、切り離しては成り立たない関係にあります。
ジュニャーナ(知識)やカルマ(行為)は、ある程度まで内容として語ることができます——何を知るのか、何を行うのか、と。しかしバクティは技法でも知識でもなく、「誰かが誰かを愛している」という関係そのものです。愛する当人を離れたバクティというものは、どこにも存在しません。バクティは常に、バクタという具体的な人のうちに現れます。
そのためバクティ・ヨーガにおける深まりは、技能の上達としてではなく、その人自身の変容として現れます。より巧みになることではなく、よりバクタになること——この道では、歩む者になることが、そのまま目標でもあるのです。行為や知識の道が「何かを成し遂げる」ことを目指すのに対し、信愛の道は「どうあるか」を問います。手段と目的が重なり合うこの構造に、バクティ・ヨーガの大きな特色があります。
原典との関係
『バガヴァッド・ギーター』において、バクタは単なる呼称ではなく、クリシュナが「そうなれ」と呼びかける、目指すべき在り方として現れます。「常に私を思え、私のバクタとなれ(mad-bhakta)」——この句は第9章の締めくくり(9.34)に置かれ、さらに全編の最終的な教えとして第18章(18.65)でも繰り返されます。同じ言葉を二度置くというかたちに、この教えの重さがあらわれています。バクタとは、聖典が到達点として名指す境地でもあるのです(→バクティとの関係欄)。
とりわけ注目すべきは、バクタを四種に分ける記述です(7.16)。クリシュナは、自分のもとに来る善き人(スクリティン/sukṛtin/सुकृतिन्)を、次の四つに分けます。
- アールタ(ārta/आर्त) — 苦しみのなかにある者
- ジジュニャース(jijñāsu/जिज्ञासु) — 知を求める者
- アルタールティン(arthārthin/अर्थार्थिन्) — 富を求める者
- ジュニャーニン(jñānin/ज्ञानिन्) — 知ある者
ここで興味深いのは、聖典が苦しみや欲を抱えて神に向かう人をも、バクタとして数え入れていることです。純粋な動機だけがバクティの入り口ではない、というわけです。
その上でクリシュナは、四つの中でも知ある者をとりわけ愛おしいと語ります(7.17)。ただしこれは他の三者を退けるものではありません。シャンカラはこの箇所の注釈で「では他の三者は愛おしくないのか」と自ら問いを立て、「そうではない」と明確に否定しています。どのような動機からであれ神に向かう心が、やがて深まっていく、そう読むのが伝統的な理解です。
さらにギーターは、バクタであるための条件を問いません。生まれにかかわらず、ひたむきに信愛する者は誰もが至高の境地に達すると説かれます(9.32、→バクティ:原典との関係欄)。バクタとは資格ではなく、心の向きの名である。ギーターのバクタ観は、この一点に貫かれています。
🔗リンク
語族(動詞語根 √bhaj を共有する語)
バクティ(bhakti/भक्ति)
バガヴァット(bhagavat/भगवत्)
四種のバクタ(『バガヴァッド・ギーター』7.16)
アールタ(ārta/आर्त)
ジジュニャース(jijñāsu/जिज्ञासु)
アルタールティン(arthārthin/अर्थार्थिन्)
ジュニャーニン(jñānin/ज्ञानिन्)
関連する概念
バーヴァ(bhāva/भाव)
ラサ(rasa/रस)
ゴーピー(gopī/गोपी)
バガヴァッド・ギーター(Bhagavad-gītā/भगवद्गीता)
四大ヨーガ